過去を振り返ってみると、嬉しいと思える記憶はいくつかあります。
ただ、その時、ものすごくうれしかったかと言うと、そうでもない。毎回毎回「まぁ、運が良かったんだよ」というくらいにしか思えませんでした。
良くも悪くも謙遜する私の気持ちはかえって自分を不幸にしてしまっている気がします。
なので、現状を見返し、次に自分がどうすればいいのか、考えてみようと思いました。
激しい努力の果てにこそ真の喜びが
楽しみもなくゆえに熱意もなく
私は「楽しい」とか「得になる」以外の原動力で行動することはまずないです。(目の前の人を衝動的に助けることはありますが)
「楽しい」は「おいしい」「気持ちいい」とかも含まれますし、むしろ人によっては「気持ちいい」と言い換えた方がしっくりくるかもしれません。
また、「得になる(かもしれない)」で行動することもあります。将来のことは確実にはわかりませんから、本当に得になるかどうかはわからないこともあります。特に新規性の高いことや、独立してやっていくときには「得かもしれない」で動くことになるでしょう。
といっても、成功した人ほど、「得になる」への確信の度合いが強いです。いわゆる「成功体験の積み上げ」による戦略や継続することから来るリターンへの確信が強いからです。長期的な視座で、ここで失敗しても最終的に大丈夫ならOKと考えて、1回の失敗にめげずに行動を続けられます。
そういった人は多少失敗しても、自分は間違っていないと思えて次の行動に移ることができます。
私はどっちかというと確信の度合いが弱い方で、何か大きな失敗をしてしまうとコケてしまうタイプです。一回の失敗で、もうだめだおしまいだ、と思ってしまうほど弱い人間です。
また、「楽しい」だけでは「得にならない(だろう)」と思っているため、楽しいだけを追求して生きていくこともできない性格です。
世間一般多くの人は「楽しい」を手に入れるため、苦しくとも「得になる」を選んでいます。つらく苦しい会社勤めも、楽しい時間を手に入れるためとして認識し、そのために頑張るのです。
人間は楽しい時間を得るための、お金を得るために、頑張っているのです。
なのですが、私はそこまで情熱をかけて求められる「楽しい」がありません。高い買い物はあきらめますし、将来の不安からお金を使うことを嫌います。
そのせいか、「これさえあれば頑張れる!」みたいな応援要素がなく、ただ、下り坂みたいな人生を送ってしまっています。
「お金なんかなくても」という人もいますが、そりゃ甘いと思っています。
お金がなくても人生楽しい人は、お金を稼ぐことが自然にできる人です。ただ、その金を稼げるだけのスキルを、金ではなくそれ以外の楽しいものを得るために使っているので楽しいのです。お金を経由せずにほしいものを手に入れているだけで、
お金の稼げない一般人の魅力は、その人の保有している資産でしか測れないと思います。まぁ、金でしかその人間の価値を測れないのは、測る側も測られる側も不幸な感じがしますが。
ですが、私自身がそういった人間で、安心を得るために、とにかくネチネチ金をためようとする。
やりたいことがないわけじゃないが、結局のところダラダラしていたい。でも将来の不安はあるし、と自分を抑圧して、暮らしている。
そういう状況では、喜ぶどころか、精神的にもつらく、生きるのが楽しくなくなるのもうなずけると思います。
本当は楽しみにしていることがたくさんある
本音を言えば、楽しみにしていることは山ほどあります。
ジャンプ+で連載されている「タテの国」のおかげで毎週木曜日が楽しみです。
今期はアニメが豊作で、楽しみが増えまくっています。呪術廻線、進撃の巨人、ワールドトリガー、Dr. Stone。ここまで見るアニメがたくさんあるのは、私にとっては高校時代以来で、とてもうれしい出来ことです。
ドリフターズの新刊が出るのはいつか知りませんがとりあえず楽しみです。
PS5だって買って死ぬほどやりまくりたい。
そんな気持ちは実は内心では山の様に抱えているのに、それを表に出せておりません。
不安から来る貯金という目標のために行動しきれていない自分が、PS5を買う資格なんかないと自罰的になってしまっているだけです。
とりあえず喜ぶようにしてみる
まず、喜べない・喜ばない人間ならば、多少無理をしてでも、喜んでみることから始めようと思いました。
空が青い、ゲームで勝てた、夕飯がおいしかった、今日も仕事がある。こういった些細で当たり前のことに感謝してみることで、自分自身で喜ぶことに対するハードルを下げていってみようと思います。
一時期、「いいこと日記」といって、その日にあったいいこと3つを書き出すというワークをやっていたことがあります。その時は、あまり効果がなく、数週間ほどやって、あきらめてしまった覚えがあります。
数週間もやっていれば、習慣になるとは言うのですが、私には全く習慣になりませんでした。しかも、これといって、精神的な満足感も得られなかったために、やるのをやめてしまいました。
その時には、感謝の心が足りなかったのかな、と思っています。当たり前のことに対して、言葉だけでもいいので、とりあえず、ありがたいと言ってみる。できて当たり前とか、そんなこと普通、と思うようなことでも、見方を変えて、とにかくありがたがってみる。そういうワークをやってみようと思います。
(私はメンタルトレーニングに関するいろいろな行為をワークと呼んでいます)
うれしいと感じた気持ちを、「いや、大したことじゃないし」と吹き消してしまってきたのが今までの自分なのかもしれないと思っています。
なので、これを変えるために「ありがとう」と言いまくるワークをやっています。
毎日100回ありがとうと言ってみる
当たり前のことに対して、感謝の心を持つ。感謝の心を持ちきれないにしても、とりあえず、ありがとうというようにしてみる。これで、何となく毎日が少しずつ良くなっているような気がしています。
このメソッドは少しスピリチュアルっぽい方法です。私もスピリチュアルっぽい本で紹介されているのを見て始めました。
どうしてそんなものを信じて始めたのかといわれると、簡単だからです。ありがとう、とつぶやくための労力なんて大したことじゃないですから、別に言っても言わなくても大して変わりはないでしょう。
さらに、「下心があってもいいから毎日100回ありがとうという」と本に書いてあったのもよかったです。下心があってもいい、と下心を許されることで、自分の気持ちが軽くなったような気分になれました。
なので、いまでも、「下心があってもいいのか」と思い、やってみることにしています。
拝啓お袋様
— ドムスト@マルチクリエイター (@domustoX) 2021年3月2日
本日もお昼ご飯ありがとうございます
こんなふざけた文面ですし、わざわざつぶやくほどのこともないことですが、つぶやいています。面と向かってありがとうというのは少しまだ気恥ずかしいので、ツイッターで慣らして、いずれちゃんと、面と向かってありがとうと言えるようになろうと思います。
また、筋トレの時、「ありがとう」とつぶやくようにもしています。
人間辛いときほど本性が出ると言います。なので、簡易的に作れるつらい状況「筋トレをしているとき」に「ありがとう」とつぶやくことで自分に刷り込みをかけ「辛いときでもありがとうと言える自分」を作り上げてしまおうというわけです。
私は現在、在宅勤務による運動不足を気にして、日常的にスクワットをしています。その回数を数えるときに「ありがとう1、ありがとう2」とつぶやきながらスクワットをやっています。
これはそこそこ効果があるような気がしています。特に、スクワットという、キツ過ぎない運動なので、結構「ありがとう」と言っている余裕があります。
この「筋トレしながらありがとうとつぶやく」のはマインドマッスルコネクション(使用する筋肉に呼び掛けることで筋肉が付きやすくなるという研究理論)とも近い方法になると思うので、とても良い方法だと思っています。
終わりに
喜びの感情が薄いというのは私にとっては結構大きな悩み事です。ですが、この(スピリチュアルっぽくはある物の)「ありがとう」を駆使する理論によって、うまく自分に刷り込んでいくことで、喜びを作り出していくことができるのではないかと、考えています。
「成功するから幸せなのではなく、幸せだから成功する」この原則に基づいて、より人生に喜びを増やしていきたいと思います。