日々、仕事では無力さを噛みしめ、辛い思いをし、ただ時間を空費しているような生活を送っています。
毎日辛いことがあります。成果が出ないで悶々とし続ける日々が当たり前になってきてしまいました。仕事というだけで理由もなく体に拒否反応が出るのも毎日のことでした。それによって、日中起きているだけでもつらいという日々もありました。
これでいいのかと思うことも、数回でありません。現状を考えるだけで悶絶するほどの苦しみを味わったこともあります。
それでも今の環境に対して私は大いに感謝すべきことがたくさんあります。
それでも、やっぱり、私は運が良く、幸せで、現状に感謝するべきなのだということを、振り返ってみたいと思います。
会社で雇ってくれていてありがとう
何よりも真っ先に、このご時世に会社に雇っていただいているというだけでも十分感謝すべきことです。
更に言えば、私が所属しているのはその筋では一番の大企業です。本来であれば筆記試験だって通るかどうかというような会社に、入社させていただきました。面接のときには、面接してくれるだけでもうれしいと思ってワクワクしながら面接を受けた覚えがあります。(おそらくそこを気に入っていただけたのだと思います)
ただ、入社した後は、そのチャンスを十分に生かすことができず、鬱屈した毎日を送ることにはなってしまいました。
それでも上司はなんだかんだと言いつつ、世話を焼いてくれ、厳しいながらも私に様々な知見を授けてくれました。
それを吸収しきれているとは言い難い状況ではあります。ただ、それでも、私は、上司が気づかせてくれたことが、私のこの先の一生に大きく影響を与えると思っています。
上司の教えをしっかりとかみしめようと思って書いた記事がいくつかあります。
上司は切れ者です。頭が切れすぎて、考えが社内でも先進的過ぎることもあります。私も会話に追いつけないときがあります。しかも、話は縦横無尽に様々な知識と見識を踏まえ、それでいて筋の通った話になっています。
ある意味、私が日々の仕事に追いつけないと感じる一因には、上司がやや天才タイプで、凡人のステップを理解できていないのではないか、とも思ってしまいます。
その一方で、先輩・後輩はそれなりに上司のスタイルに適合しており、何もできないのは私だけという状態です。なので、そこに対して情けなさや悔しさを感じることもあります。上司もいら立ちを感じていてもおかしくないと思います。
ただ、それでも、上司は、根気強く私の成長を見守ろうとしてくれています。最近は、私自身が決断することが重要だと考え、あまり上司自身の意見を聞く機会は減ってきてしまいましたが、それでも、上司は私のことを守ってくれています。
上司はアンガーマネジメントなどを駆使して、自分の感情とは別に、上司らしい振る舞いをしており、それも、ある意味で、私にとってはとてもすごいことだと思います。そういった点でも私の上司は尊敬に足る人物だと思っています。
そんな人物とともに一緒に働けているというのは、とてもありがたいことだと、本当は思っています。
でも、それでも、どうしてもできないものはできない。なので、先日思い切って「できんわ!」と訴えたところ、それなりに配慮はしていただけることになりました。
これもありがたいことです。
家族が健康に一緒に暮らせている
このコロナの蔓延する世界においても、身近な感染者も出ず、一家仲良く暮らせているということも、とても幸せな事です。
昨年には、祖母が亡くなりましたが、それとて、長年の闘病生活の果ての大往生でした。本人の望み通り、延命治療を行わず、直前に病院にすっ飛んで行って今わの際に見舞えたことは、本当にありがたいことでした。
実家暮らしであり、身内に養われながら、金を貯めることが出来る環境が整っていることも、非常にありがたい事です。何もしなくとも、ご飯が用意され、風呂を沸かしてもらえ、洗濯もしてもらえる。とても甘やかされた生活を送っています。
さらに、両親は家賃の取り立てをするでもなく、私がコツコツと資産を構築していることを温かく見守ってくれています。貯金好きな私は、毎月、多くの人々が支払っているであろう家賃分を投資に回し、資産の構築を地道に続けています。
将来への不安が強い私は、投資をして、少しでも将来のことに備えていないと落ち着いていられない性分です。
なので、貯金という形で
いつかきちんと自立して、一人暮らしをし、両親に以下に大変な労働を押し付けていたのかをかみしめたいと思います。そして、いつの日か、二人が楽しい時間を過ごせるようなプレゼントをして、受け取った恩のごく一部だけでも、返せればと思っています。
その時には、若いころに投資したお金の利回りで恩返しをできたら最高にかっこいいかもしれないな、と思いました。
何もできていないことへの実感
一方で、私は守られているばかりで、何もできていないのが実情です。
私の感じる幸せは、他人から与えられ、他人に守られているから存在する幸せといっても過言ではありません。
言葉では感謝したいと言っていても、何もできていません。感謝しなくていいから、普通に仕事をしてくれというのが上司の本音でしょう。
自らの非力が悔しいと思っても、結局そこから目を背け、逃げて自閉して、結局、何もできていないのが現状の私です。
何かをすることで傷つくくらいなら、かえって何もしないで、他人のせいで傷つけられたと思える方が、マシだと思えるような卑屈な人間になってしまいました。
それでも、私は何とか生きていますし、そういって「ダメだと思うこと」「逃げたいと思うこと」を受け入れてくれる存在もいてくれます。
自分を受け入れてくれる他人に依存するのではなく、自分を受け入れてくれる他人を信頼することで、自分で自分を受け入れていくのも、大事なことの一つなのかな、と思えるようになってはきています。
おわりに
この記事を書いた理由が、私は本当にそのことをありがたいと思っているのかという疑問を抱いたからです。
言葉ではありがとうと言っている物の、それはただ習慣や反応的なものになってしまっているかもしれないと思ったからです。
昔から、それなりに礼節には気を付けてきた方で、挨拶やお礼は人より多く言っていると思います。しかし、それが、実感のこもった感謝なのか、ということに少し疑問を持ったからでした。
ですが、こうして一つ一つ、今の自分にとって当たり前のことをありがたいありがたいと列挙していくと、自然と感謝の気持ちというのは沸いてくるものだな、と思いました。
雑記には暗い記事が多く、ポジティブにならねば、と思っていたところですが、何も無理やりにポジティブになる必要もなく、今ある物で十分、ポジティブになれる要素はあるのだと実感しました。