不器用人間の思考勉強お楽しみ

全然器用に生きられない私の真面目な事、勉強の事、お楽しみの事を書くために開設したブログです。

人から指摘を受けることが嫌だったことに気付いた

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失敗に次ぐ失敗。改善できない事態にいら立ちを覚えながらも、何とか前に進もうと頑張って毎日を送っております。

 

最近では、メンタルクリニックに行ったり、カウンセリングを受けたりしていました。

どちらも、他人の勧めで行きはじめたものの、これと言った成果が見いだせず、少し落胆していたところもあるのですが、今日のカウンセリングでは、今までにない気付きがありました。

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それがタイトルにもある通り「人から指摘を受けることが嫌だった」ということです。

 

 

人から指摘を受けることが嫌だと初めて気が付いた

 

私としては、他人の指摘は極力受け入れるようにしてきたつもりでした。自分が常に正解ということはあり得ませんし、多様な価値観を取り入れるという意味でも、他人の意見を聞くことは重要だとは感じていました。

 

ただ、それでも、仕事で上司から指摘を受けるたびに、嫌な気持ちになり、落ち込んでいました。

それが積もりに積もっていくにしたがって、上司と話をするたびに怒られるというような感覚に陥り、上司と話すこと自体、もっと言うと、会うこと自体がストレスになっていました。おかげで、上司と接する時や、上司が近くにいるだけで緊張して体がこわばるほどでした。これではまともにパフォーマンスを発揮できるわけがありません。

 

さらに、上司から指摘を受けることを極端に恐れているのではないか?ということをカウンセラーに指摘されたときは内心ムッとして、(正直に言えば)そのことを素直に認められる気持ちではありませんでした。

それも落ち着いて考えれば、他人から指摘を受けることが嫌だったということにも通じるわけですし、むしろ確たる証拠を言われた瞬間に得て居たような物でした。

 

「ゆとり世代は怒られ慣れていない」と言われることもありますが、まさにその通りだったのかもしれません。

 

怒られると言っても、怒鳴られるということではなく、指摘を受ける・注意をされる、レベルでも「怒られる」の範囲に入っているのだということにも今更気が付きました。

 

思い返してみれば、学校で怒られると、それだけでかなり嫌な気分になっていました。「そこうるさいぞ」とか言われるだけでなんだかしゅんとした気分になってしまったことをよく覚えています。

 

もっと言うと、ブログの記事を直すのも、凄く嫌な気分になります。自分で読み直してリライトするというのすら、嫌な気分になってしまうことがあります。

自分の書いた絵や小説についてコメントを貰うと、どんな指摘でも内心ドキッとしてしまい、緊張してしまうことがあります。(これでは小説家なんてやってられないでしょうね

 

自分の価値が下げられていくように感じる

 

指摘を受ける事。それは、自分ができないということが明確になり、それを糾弾されることの様にすら感じてしまいます。

 

自分がミス一つない完璧な最高傑作を作っている自覚はありません。なのに、失敗やミスを指摘されると、どうしても、ものすごく気分が落ち込んでしまいます。

 

ミスが単純な誤字であったりすれば「自分はこんなこともできないのか」と落ち込んでしまいます。

 

これ、おそらく、作業と人格を同一視してしまう、メンタルに不調をきたしている人によくある症状なんじゃないかと思います。

 

罪を憎んで人を憎まず、なんて言いますが、自己肯定感が低いと、罪と自分が一体となって、自分自身が罪のように感じてしまうことがあります。

 

ですが、実際には、ミスをしたからと言って、私の全てが否定されるわけでもありません。プレッシャーのある環境だったり、ミスが許されないような状況であれば、確かに命がけでミスを減らすことを考えなければなりません。

実際に、全否定されないと言ってもやはり失敗が恐ろしいのは道理で、おかしい事じゃないと思います。

 

ただ、だからと言ってミスの指摘を受け入れられないことの方が、人格的にはよっぽど問題で、成長の伸びしろが無い人間になってしまうんですよね。

 

目先のことを考えれば、指摘を受けたり、ため息をつかれたり、もっと注意深く視ろ、と言われたりするのは苦痛です。それをされるだけで泣きたくなります。

でも、それでも次に生かすためには、その指摘を受け入れるしかないんですよね。

 

ミスをした時ではなく、その後の行動で人間決まると言いますから、指摘を受け止められる器の大きな人間になることが求められるのでしょう。

別に指摘を素直に受け入れる程度で器が大きいとは言えないのかもしれませんが

 

内心自分でダメだと気づいてるからこそ

 

怒られたり指摘されたりすることは嫌です。それは単純に指摘され慣れていないということも原因の一つではあるでしょうし、自分が否定されているように感じるから嫌だというのもあるでしょう。

 

しかし、もう一つ、心当たりがあります。それは「自分で分かっているけどどうにもできなかったことを指摘されるから」という理由です。

 

私としても、自分が作った物が完璧ではないと自覚しています。(それは先ほども述べた通りです

ただ、分かっていてもどうにもできない、どうすればいいのかわからないことを指摘されるとすごくイラッとしたり、悲しくなったりします。

 

というのも、どうしようもなかったことと言うのは、それだけで自分の考えをネガティブな方向に向けてしまいます。

さらに、分かっていたことを指摘されるというのは、ますますいやな気持になります。それは、子供のよくある「宿題やったの?」「今やろうと思ったところ~」という会話にそっくりです。

 

今更自分が子供じみた感情の動きをするということに目くじらを立てたりはしません。

 

でも、自分で分かっていてもどうしよもなかったということに対するフラストレーションがものすごくあったからこそ、それを指摘されると、ものすごく嫌な気分になるのかもしれません。

そして、良くないものを作ったという自覚が、提出に対する自信を鈍らせ、共有した後、「どうせ文句を言われるのだろう」という後ろ向きな態度と、指摘を受けることに対する苦手意識が相まった異常なプレッシャーを感じてしまうという流れかと考えられます。

 

何とかして、このフラストレーションを上手く活用し、より良い物を作るという熱意を引き出すことができれば、負の感情から良い物を作り出せるということですから、これは実に望ましい事かと思います。

 

終わりに

 

自分が他人から指摘を受けることを極度に嫌がり、恐れてしまっていると言う気付きはおそらく今後の人生で非常に重要な転換点になると思われます。

 

おそらく、この気付きを得ても、なお、指摘に対する嫌な気持ちという物は消しきれないと思います。ですが、それでも、指摘をしてくれる上司の気持ちを受け取り、指摘を受け入れていきたいと思います。

そして、耳の痛い他人の指摘を快く受け入れられるようになれば、それによって、人生は改善のサイクルを駆けあがれることになります。

 

先日、新聞のコラムで、黒田長政の異見会というものが紹介されていました。これは、家臣が殿である黒田長政に何を意見しても良く、黒田長政が怒ったような顔をすると、そのことを家臣が指摘し、黒田は「怒ってないよ」と表情を和らげる、というルールの会だったそうです。

耳の痛いことを言われ、その上で怒ることも禁じられ、笑顔にならなきゃいけないというのはなかなかに厳しいルールにも感じます。

ですが、それだからこそ成長するのであって、この耳の痛い話から目を背けず、現実をしっかりと受け入れ、同じ失敗を繰り返さないようにする。

 

そんな当たり前だけど難しいことを黒田長政を見習ってやってみたいと思います。