頑張っているのに、誰も認めてくれなくて悔しいという経験はあるでしょうか。そんな時なんて、私にとってはしょっちゅうです。努力が他人から評価されることの方が少ないくらいです。
努力が評価されないと、それこそ「俺の優秀さを知らしめてやる」とか言って、悪役みたいにねじ曲がった精神になりそうです。しかし、あなたもそうはなりたくないでしょうし、そうならない様にするためにはどうすればいいのでしょう。
悪役になるほどでなくとも、評価されないのならやる意味がないような気もしてきてしまいます。努力なんてしたって、無駄だと思って無気力に生きたくもなります。これも良くないのですが、どうすればいいのか。
どう考えたらもっと努力ができて、辛くない人生を送れるのか。考えてみました。
努力を周りに気付いてもらえるようにしていない
一番冷淡な意見から真っ先に言います。そもそもあなたはそんなに注目してもらえていません。
あなたの一挙手一投足になんか、あんまり興味ないんです。私なんか背景も同然で、知り合いに声をかけてもらえる方が少ないくらいです。あなたが人と会う前に100km走ってきても、多分「何でこいつこんなに疲れてるんだ」と思われるだけです。
100km走るなんて、かなりの努力をしているはずですが、相手にとってはどうでもいいことなのです。
それに、見当違いの努力の評価をあなたが求めているのかもしれません。
人生は毎日他人から試験されているようなものです。相手には相手の設定した試験科目があります。格闘ゲームを練習して上手になっても、職場の上司や学校の先生の試験科目では評価してもらえません。場合によってはゲームばっかりやってるダメな奴と思われるかもしれません。
仮にそのままeスポーツの有力選手になっても、あなたのまわりに、そのすごさを分かってくれる人がいなければ、あなたの努力は認めてもらえません。
そして、眼に見える形にならないと人は分かってくれません。
あなたが努力して英語力を高めていても、他人にはよくわかりません。あなたが、突如現れた外国人ときちんと会話出来たり、TOEICで高得点たたき出して初めて人は気づいてくれるものです。
試験であなたの実力が正確に測れるとは言いません。偶然高得点だったり、緊張して実力を発揮できなかったりということもあるでしょう。
ですが、そう言う風に何らかの形で証明となる物を持っていないと他人はあまり努力に理解を示してくれないものです。
逆に他人に見せびらかすだけの目的で、資格に合格しまくれば、努力は見やすくなるでしょう。
とはいえ、資格なんて持っているだけでは意味がなく、今度は持っていることを他人に向けて発信しなければ、分かってもらえません。(なのでこのブログでことあるごとにFP資格を持っているとわめいているのです)
努力の成果ができっていない
努力の成果が出るのには時間がかかります。
今日頑張っただけではだめで、明日も頑張らないといけないのです。それがつらいなら、努力を諦めるしかありません。
今日100km走ったからと言っても、明日も走らなければ、成果となって現れることは厳しいでしょう。何も毎日100km走れと言うことではありません。むしろ、走る距離はもっと少なくてもいいです。ですが、それを継続できないと、成果は出ません。
勉強も、頑張ってやってみたけど、だいたい成果なんて出ません。しっかり勉強したし行けるだろうと思って試験を受けても惨敗することもあります。これも成果になっていない例となります。
人は努力が何らかの目に見える形になって初めて気付くものです。さっきも言ったように、他人はそんな些細な変化に気付かないものです。
来る日も来る日も走り続けて、体型が変わってきて、やっと気づいてくれる人がいるかもしれないというレベルです。(そんな人がいてくれたなら、その人に感謝してください)
だから、成果が出ないうちに、努力を認めてもらえないなんて言っても、それはある意味当然のことです。成果が全てとは言いませんが、その努力の過程を認めてくれるのは、かなり親しい人だけです。
そして、あなた自身も努力の成果が出ていない時は一番イライラする時です。
これだけやっているのに、成果も出ない、他人からも認めてもらえない。自分はこんなに苦しんでいるのに。どうしてなんだ。
こんな風に分かりやすく怒りを抱くこともあれば、ただ何もわからずイライラだけするということもあるでしょう。
ですが、いつかそれが認められる日が来ると信じて、努力をし続けるしかありません。私だって、今の努力が報われるかどうかは本当のところは知りません。しかし、すべての努力は自分の血肉となります。派手に努力すればするほど、仮に失敗しても、ほかのことにもリターンが来ると信じています。
(未来を信じるなんて無責任な話なんですけどね)
自分が努力を認められていない
他人が努力を認めてくれないと何よりも悔しい時は、そもそも自分自身が努力を認められていないことがあります。
人間は自分に足りないものを本能的に他人で補おうとします。自信がないから、他人からの称賛に依存したり、自分を認めてくれる他人に依存してしまいがちです。それを適用すると、自分が自分の努力を認められないから、他人に認めてもらいたいと思う訳です。
それとは別に、単純に他人からの承認に飢えているという可能性もあります。(例えば、親から認められていなかった等)ただ、それもある程度の時間変化があれば、自信の問題になってくると考えています。
この、自分の努力を認められないという精神状態にも名前があります。それは『インポスターシンドローム』です。
有能で、世間から見ても称賛されるような仕事ぶりでも、自分に自信がなく、自分の化けの皮が剥がされて、無能な自分がさらけ出されてしまうのではないか、という恐怖を常に抱えている状態のことです。
と、多くの場合説明されます。こういうと「自分はそんなに有能じゃないし、世間からも称賛されてない」と思う人も多いのではないでしょうか。(私です)
この解説が間違っているわけではないのですが、「それくらい有能な人でもなっちゃうもの」であって、無能な人がならないわけじゃないです。むしろ、自分に自信がない人は全員インポスターシンドロームだと言って良いんじゃないかと思っています。その辺の誤解を与えるような解説が世の中に多いのですが、別に悪意があるわけじゃないと思います。実験上、そういう人たちが対象になっていただけとか、そう言う理由なんだと思います。
自信(または自己肯定感)と言うのは非常に難しい物です。自分が頑張っていない瞬間も、自分は知っているからです。どんなに周りを取り繕っても、自分だけはそれを知っちゃっていますから。そのせいで、どれほど頑張っている瞬間があっても、欠点の方に目が行ってしまうことが多いのです。しかし、どんな超人や有名人でも頑張ってない時はあります。誰にだって休息は必要ですから。
まず、生きている以上、絶対に努力しているはずです。周りが当たり前に出来ていることをしているだけ、と思うかもしれません。それでもあなたにとって大変なことをしているのなら、あなたは努力しています。
朝遅刻しなかったとか、そんな些細な事で褒められてもうれしくないでしょうけれど、喜んでください。その「そんなことで喜べないよ」がより大きな努力にまで拡大したのが、インポスターシンドロームなのでしょうから。
私も、インポスターシンドロームのことを聞いたときには、「凄い人も大変だなぁ」くらいにしか思っていませんでした。そのうち、なんとなく自分がそうなんじゃないかと思い、インポスターシンドロームなんだと思って、自分の努力を少し甘やかし目に見てみたところ、面白いくらい人生が楽になりました。(別の課題は山積でしたが)
真にインポスターシンドロームかどうかは大事ではありません。別に、あなたは精神科医ではないので、厳密にそうか否かを判断する必要は全くないのです。そういう事かも、と受け入れてみて、自分に優しくしてみるきっかけにしてみてくださいい。だけでも、インポスターシンドロームと言う名前を知った意義があると思います。
終わりに
ほとんど、自信の話をしていた気がします。しかし、周りを変えるよりも、自分が変わった方が楽です。「自分はもう十分変わっているのにどうしてまだ足りないの?」と思うかもしれません。ですが、更に変わったらもっと凄いことになるんじゃないでしょうか。
私も、色々なところで躓いて、努力をないがしろにされたり、見向きもされなかった経験は多々あります。しかも、こういった考え方を出来るようになるまでに、かなり苦しんできたことも事実です。
こういった私ごときの経験があなたの助けになってくれれば、と思っています。