ドムストの雑記帳

全然器用に生きられない私の真面目な事、勉強の事、お楽しみの事を書くために開設したブログです。

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失敗だらけの孤独のグルメ

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孤独のグルメは今やドラマも大人気です。私もたまに録画やアマゾンプライムで見ては、おっさんが飯食ってるのを見てニヤニヤしています。

しかし、原作の孤独のグルメはあんな風ではありませんでした。もう少し人生らしさがにじみ出ている作品です。

 

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ここまで言い切ると、ドラマ版嫌いのようだが、そうじゃないです。ドラマ版はドラマ版で、あの呑気さとゆったりした雰囲気はうるさいテレビのエアポケットの様なものと感じられるからです。
原作と雰囲気が違うからと言って、それがすぐクソとなるわけでもありません。ドラマ版はドラマ版として楽しめばいいと思っています。

 

あの緩やかでマイペースな自由な瞬間を切り抜いた映像は好きです。

 

だが、漫画版が、ドラマ版のように、上手く行くわけではないということを知ってほしいのです。

 

少し昔から『孤独のグルメ』に親しんでいた奴の知ったかぶりをご容赦ください。

 

 

 

 

原作に残る時代の色

原作版には、当時の「今」が非常に色濃く描かれていると思います。
当時はそれが無意識なのかどうかは分からなかった。しかし、ドラマ版と比べると意識的に描かれていたように感じます。
秋葉原の電気街の描写があったり、デパートの屋上遊園地が出てきたり。

今となっては、屋上遊園地は閉園になったり、秋葉原の様相も変わってきている。

当時は何も意識されていなかった「今」がある程度、意識的に描かれているように感じる。
もちろん、現実世界を舞台にしており、タッチも写実的、街の風景なども取材を重ねたものであるから、「今」が現れるのも必然だろう。

この「今」を、言い換えると、たぶん、風俗、となるのだろう。
風俗と言うとすぐエロい方に思いを走らせる人がいるが、本来は、日常の風習など、日々の営みの習わしのことを意味する。

すぐエロい方を想像した人は下町風俗資料館に行って反省してどうぞ。

 

それは、既に原作が描かれたころから、時間が経ってしまったせいなのかもしれません。数年後には、孤独のグルメのドラマ版を見て「あぁ、時代はこんなに変わったのか」と思う時が来るかもしれません。

 

原作の久住と言う人は、意外と、風俗とか、時代によって移り変わってしまいそうなものに対して嗅覚が効く方です(私の勝手な感想ですが)。なので、デパートの屋上遊園地だとか、電気街の秋葉原だとか、そう言う場所良く出てきます。

 

 

ドラマ版も漫画版も、風俗を反映していない、今も昔も大して変わっていないものが登場することは多々あります。ですが、ドラマでは、いかんせん数が多すぎるがゆえに、そう言う部分にまで目を向けるのは難しいのではないか、と感じています。

 

 

変な気持ち・失敗を経験する井の頭五郎


第一話では、主人公井の頭五郎は浅草周辺を歩いている。しかし、だんだんと飯を食えるところが無くなってくるので、見つけた食堂に飛び込む。

そこでは、誰もが帽子をかぶっており、井の頭五郎も「なんでみんな帽子なんだろう」と不思議がる。
その後は、お待ちかねの食事シーンが入る。
そして、食事を済ませた後、井の頭五郎は会計を済ませ、退店する。その時、少し歩いてから振り向くと、店員の女性や常連たちが、店から顔を出して覗き込んでいた、という描写が入る。


第一話で井の頭五郎が飯を食べた場所は現実では山谷と呼ばれる地区です。

 

今では、都内だが比較的安く泊まれ、ちょっと古風な家も残っている上に、浅草に近いということで、特に海外の若者に人気の宿泊地だったりします。しかし、山谷とは、あまりよい言い方ではないが「ドヤ街」と呼ばれる場所です。詳細は省きますが、日雇い労働者の街です。

 

ちなみに、『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈は当初はケンカ屋としてドヤ街に流れ着き、そこで非行をしていました。読んだことのない人には伝わりづらいかも知れませんが、一度手に取ってそれを体感してみてください。

 

我らが井の頭五郎はスーツ姿で、ドヤ街に何も知らず突撃したのである。この意味が、この時点で分かった人は、かなり鋭い上に、知識もある人でしょう。

 

スーツ姿と言うのは、日雇い労働者から見れば別世界の住人である。
どう取り繕っても、社会的・経済的格差に存在している。スーツと言うのは山谷においてはある程度、高いステータスの証だったのだ。

だから、山谷の人々は店から出ていく井の頭五郎に対して「何であんな格の違う人が」不思議さを感じ、そのせいで店から顔を出して見送られてしまったのでしょう。

ここであえて、「格」という言葉を使いましたが、実際その差は現実として存在していることは間違いないでしょう。

 

それに何を思うかはあなた次第ですが、少なくとも、『孤独のグルメ』はただ、ご飯を食べて、ああうまかった、ではありませんでした。

 

その後の話でも、井の頭五郎は、注文しようとしたやきそばや雑炊の提供を拒否され「がーん」と言ったり、目の前でバイトに怒鳴る店主のせいで食欲を失ったり(かの有名なアームロック回である)結構災難な目に遭う。

だからと言って、落ち込むわけでもなく、飯は飯で楽しみ、小さな幸福を見つけてはニヤッと笑い、飯を食い、話は終わる。

小さな不運と小さな幸運に挟まれて、フラフラどっちつかずなのが人生で、井の頭五郎は、孤独のグルメは本来そんな物なのだ。

 

 

子どもの頃には、どうにも上手く行かない井の頭五郎の日常に、煮え切らない思いを抱いていました。子どもには少しビターすぎる味がしました。
井の頭五郎と言う男は美味い美味いと言っておきながら、顔はどこか寂しげだったり、不満そうだったりと鬱勃としている。

美味しい物を食べていると言っても、激しい喜びを感じているようでもなく、ただ、あくまで人生の一部のタスクとして、ただ淡々とこなされているようなことも多いです。

 

 

ドラマ版では、実店舗を借りて撮影するという関係上、井の頭五郎が不運な目に遭う展開はご法度だろう。原作でやってた、ご飯の御残しも厳禁でしょう。

 

媒体が違えば、そこで求められるものも違ってきます。
原作におけるビターさ、大げさに言えばダークさを抜いたドラマ版は、気軽に見られるモノに仕上がっています。おっさんが一人で飯を食って、うまいうまいと言う。あれくらい肩の力の抜いたご当地ドラマっぽいのでも十分です。面白おかしいと言うと言い過ぎかもしれないが、その部分だけが残ったのがドラマ版だと思っています。

 

 

原作者の全面的な協力を受けてのドラマであるから、原作にあったビターさが削ぎ落されたのは、同意の上だったのだろうし、(勝手な想像にはなりますが)それがテレビの文法なのだろうと、原作者自身も理解してのことなのでしょう。

 

人気が出た必然なのか、原作でも2からは少し外的な要素(飯を食う以外の要素)はなりを潜めている気する。

 

 

どんなものであっても人気が出ると、どうしても毒が抜けてしまうように感じている。

それは人気でなくとも、有名になってしまえば、それだけ万人を意識しなければならないので、その結果であると言える。

有名になった分、ちょっとでも激しいことをすると、過激だと糾弾されるからだ。

 

もちろん、それにも良い面はあると思う。
Fate/stay nightは今や有名でアニメも放送されているが、原作のシナリオにはアダルトシーンがある。それを削ぎ落さなければ、テレビ放映には至らなかったし、その後のシリーズの存在もなかったでしょう。

そもそもアダルトシーンが苦手な私にとっては、万人受けを狙ってアダルトシーンが削除されることの方がありがたいです。
それで、作品世界がマイルドになって毒が抜けることになっても、です。
fateの場合には毒は全く別のところにきちんと存在しているのだが

 

 

だからこそ、孤独のグルメにおいても、毒を抜いた飯には大いに賛同するところです。でも、ちょっぴり、あのビターな、井の頭五郎の情けないような、哀愁の感じられる顔が、好きだったのだ。

 

些細な失敗と成功の積み上げが人生なんだと言ってくれるような、そんな顔が。

 

 

子ども時代の私は、そう言ったことを読み取れず、ただ渋い顔をしている井の頭五郎、「孤独のグルメ」に対して少しだけ苦手意識を持っていた。

 

それが、今となってはその情けない顔すら、楽しんでいられる。
それが大人になるってことなんだと、そう思いました。

 

誰でも読める大人のマンガ。それが失敗だらけの「孤独のグルメ」です。