昨日は仕事でのふとした不安が、ちょっとだけ胸をかき乱した夜の想いを記事にしました。
そんな昨日の今日で、更に自分の無力を痛感して、更に胸騒ぎがしている夜です。
誰に言われたわけでもなく無力を感じた日
今まで、こうして不安になる瞬間と言うのは、誰かに何かを言われた時でした。昔は誰かに何かを指摘やアドバイスを受けることを考えるだけでも嫌になる、いわば『指摘アレルギー』状態にまで陥っていました。
最近では少しずつ自信や楽しみを身に着けることで、『指摘アレルギー』を乗り越えてきました。それでも、他人の雰囲気には過敏なところがあり、ちょっとでも周囲の人の雰囲気が悪くなる(ように見える)と、それに引きずられて自分の気分も落ち込むという状態ではあります。
それでも、少し前とは比べ物にならないほど、前向きになれるようにはなってきました。それも、周りが私に優しく支援の手を差し伸べてくれるおかげです。
ただ、それでも、今日は3つの出来事によって自らの無力を再び痛感することになりました。
質問熱心な先輩の姿
退職される年配の先輩から業務の引継ぎを受けようと、様々なことに熱心に質問をしている若手の先輩を目の当たりにして、自分にはない能力を持っていると感じました。
私は何事も要領が悪く、頭の回転も遅く、詰めも甘い方なので、様々な事態や背景を想像して熱心に質問を繰り返す若手の先輩とは大きく違っています。
私の場合は少しやってみて、何か質問が思い浮かんで、答えてもらってからまた別の疑問が思い浮かぶ、と言うように、一気に様々なことを思い浮かべることができません。また、ひとまず目の前のことを何とかするのに精一杯で、その背景にまで思いを巡らす余裕がありません。
さらに、質問をすることで、相手から過小評価されてしまうのではないかと言う恐れもあり、
なので、若手の先輩が様々な質問を一気に繰り出しているのを見ると、それだけで震えあがってしまうのでした。
若手の先輩もその場の思い付きで質問をしているのではなく、前々から質問を準備していたのだとは思います。ただ、逆に私は仕事について何かを想像するのが極端に下手で、常に想定が甘いので、仮に同じだけ時間を与えられても、先輩の様にたくさんの質問を出せません。
仕事の前提が変わってしまう
頼まれていた仕事をやったものの、前提が変わってしまい、やり直さざるを得ないことになりました。
出来たはずのものができていなかったことにされたことに、苛立ちと無力感がありました。
苛立ちを感じた時には、自分の幼さを恥じ、社会人はこうしたことを受け入れて、仕事をしていくのだ、とある程度客観的に物事を受け入れるようにしました。
ただ、後半の無力感の方は、もともと自信がないのと相まって、結構根の深い物になりました。
ここ最近の自信は、(大したことではないとはいえ)ここ最近の仕事の成果から来るものでした。自分の達成した仕事を振り返ることで「自分にもできることがあるんだ」と思えたからです。
ただ、その成果が「ごめん。前提変わっちゃったから全部チャラ」と言われてしまうと、自分の無力感に苛まれることになりました。
こうなることも予測して仕事はできなかったのだろうかと言う風に、自分を責めてしまう気持ちが大きかったのも事実です。やってみたからこそ分かったことではあるのですが、今までは「これで完璧に仕上がった!」と思っていたのが「修正したけど、やっぱりだめかもしれない」と思うようになると、大分自分の心にぐらつきが出てしまいます。
それだけ頑張ってやった仕事なんだと言えばそうかも知れませんが、それくらいの努力は誰だってしているはずで、こんなことに苛立ったり無力感を感じたりしてしまう自分にも呆れているからこそ、ダメージはとりわけ大きいのだと思います。
自分の仕事の結果が採用されなかった
昨日自分がやった仕事を送信し、評価を仰ぐことになりました。この評価が、昨日の時点では来なかったので、私の不安をあおることになったのです。
今日来た結果としては、普通の反応で、ホッとしたところでした。ただ、その後、その件について作成された資料を見たところ、その資料は自分が行った作業とは別の情報源から取られてきたと思われる情報で構成されていました。
ダメだしされたわけでもなく、今までの自分から言えば、他人から何か言われなかっただけでも随分と成長したと言えるのかもしれません。ただ、自分の仕事の結果が採用されていなかったという現実を目の当たりにすると、自分の無力さを徹底的に見せつけられているような気がしました。
勿論、私の仕事はまた別の方向でも役に立っているはずで、まったく無駄だったというわけではないはずです。
ただ、それでも、自分がきちんと情報をまとめられていれば、資料にはそのまま私のまとめた情報を転記するだけで済んで、資料作成の手間も低減されたでしょう。
ある程度視点は高いのか?
今日あったショックな出来事3つについて振り返りましたが、こうやって振り返ると、自分は自分に対してかなりシビアな評価を下しているという印象を受けました。
ショックを受けたことが3つあったことも事実なのですが、そのほかにも2つほど、きちんとやり切れたこともありました。
やり切れた2つを評価して満足するのではなく、ショックを受けた3つを見つめて胸騒ぎを起こすというのは、自分がどれだけネガティブに物事を受け取っているのかよくわかるエピソードだと思いました。
確かに、仕事のやり直しを指示されたくらいで苛立つのは、本当に器が小さいとは思います。前提が変わって何もかもがやり直しという理不尽な事態は、仕事をする上では避けられない物です。
ただ、それでもその苛立ちを客観的に見つめ、自分の幼さを知り、その上で、そのことをノートに書き記して成長の糧としようとしたこと自体も、忘れてはいけないと思います。
今は夜になり、仕事から離れ、不安を抱いて胸騒ぎがしていますが、仕事をしている間にはいら立ちや劣等感にも向き合おうとしていました。
出社している状態だったので、在宅勤務の様に逃げたり、横になったりできなかったからと言えばそれまでですが、人の成長はある程度周囲から強いられて遂げるものだとは思います。自分一人で完璧に成長しきれる人間は居ません。だから、今日の出来事は様々なきっかけであり、成長の過程であるとも受け止められます。
今まで無力を痛感してきた経験は何度もしてきました。そのたびに、どうしたらいいのかわからず、心の中で泣きわめいたり、現実逃避するしかありませんでした。
ただ、今は、無能なりに、無能な自分を受け入れることと、無能から成長していこうという意思も感じています。
そう言った側面にも目をむけてやって、少しでもこの状態から這い上がってやろうと思います。
終わりに
なんだかんだあって、濃い一日になった気がします。ずっと、一日に起こる出来事が複数あって、それを並列に処理していくということはありませんでした。何かに集中していて、他のことまで頭が回らないというような状態でした。
なので、ある意味、少しは今いる環境にも慣れてきて、少しは頭が回るようになってきたのかもしれません。と言っても、全盛期はもっともっと頭が回っていたと思うので、まだまだ仕事で本領を発揮できていないような気もしています。
まだまだ整理しきれていないこともたくさんある気がしますが、明日、改めて仕事をしたのちに、私の気持ちがどうなっているのかを楽しみにしながら、今日は早めに休みたいと思います。