不器用人間の思考勉強お楽しみ

全然器用に生きられない私の真面目な事、勉強の事、お楽しみの事を書くために開設したブログです。

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人を助けてかえって辛い目に合わないようになるために

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私は割と直情型の人間なので、困っている人がいると、すぐ助けようと思ってしまう人間です。その割に、超ビビりなので、駅などの人が多いところで人を助けようと動くということはできず、自分の周囲の人間を思い切り助けようとします。


ただ、そのこと自体は悪くないのかもしれませんが、他人を助けた結果、いつも自分が傷ついてしまうので、そのことを何とかしようと思い、他人を助けなくてもいいということも選択肢に入れつつダラダラと書き綴っていこうと思います。

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なぜ他人を助けて傷つくのか


少しさかのぼって話しをします。学生時代には、同級生によく勉強を教えていました。テスト前や課題前になると、色々な人の応対をしました。別に見返りを求めてはいませんでした。人に物を教えることは嫌いではありませんでしたし、自尊心が満たされているような気もしたからです。仲良くしてくれればそれでいいよというような感覚です。


しかし、いろいろ頼られても、私は結局孤独でした。暫くすると、誰も私のところに質問をしなくなってきました。私の手助けは忘れられていました。


今思うと、そうなったのは私の対応が悪かったのかもしれません。正しいことを言うのであれば、その時の態度や口ぶりは気にしなかったということが問題だったのかもしれません。
ここまで言うと、暴言を吐いていたとか思われるかもしれませんが、そこまではしていません。ただ、私は言葉の選び方が下手で、場合によってはそれで人を傷つけたり、苛立たせたりしてしまうこともあるため、級友たちもそう思ったのかもしれない、というだけの話です。


その後、最近になってから、追いつめられて辛いという人にアドバイスや応援をしたりする機会もありましたが、それも、なんだか覚えてもらえていないというか、手ごたえがない感じがしています。


そもそも助けたというのも自己満足だけで、本当にその人が救われたかどうかは分からりません。表では「ありがとうございます」と言っていても、ただの社交辞令かも知れません。


そうなってくると、せっかく助けようと頑張ったのに、と思って気落ちしてしまいます。


そういう事が積み重なっていって、助けても誰も救われないなら助けたくない、という思いが強くなってきました。
助けてやったんだから助けられろ、というつもりはありません。そう言う風に思っている側面があるのは否めませんが、それが全てだとは思っていません。

 

ただ、助けようとしても誰も救われないのなら、私にはその程度の実力しかないのだと思えます。そう言う思いが(ありもしない方向に)肥大化し、自分は無価値だ、と思うようにすら感じてきてしまいます。


それでも助けたいと思ってしまう


「もう駄目だ」「死にたい」という人を見かけると、「大丈夫です」「きっと上手くいきます」と声をかけたくなります。
「自分なんて」という人がいると「あなたにあなたなりの価値がある」と言いたくなります。
最近は、特に、精神的苦痛を感じている人を助けたいと思っています。将来的にはカウンセリングやセラピストの資格を取って、心を癒す力を身に着けたいと思ってしまうほどです。


でも、今の私のように、助けられないなら助ける意味もなく自分の行為に意味もない、と思ってしまうのであれば、他人を助けることを志すのは止めた方が賢明なはずです。


他人を助けたがる理由の一つは、自分に自信がないからだと思います。自分に自信がないから、他人を助けるという誰から見ても善行と分かる行いをして、自分を認めたいのだと思います。


そもそも、私は他人のことにかまけて居られるほど暇でも、余裕のある状態でもありません。会社の仕事は切羽詰まっているし、余暇の時間もやることがたくさんあり過ぎて、もはや時間が足りていません。
そんな状況で、他人のことに首を突っ込むというのは、通常考えれば愚行です。


それをやってしまうのは、自分にとってあまりに成功体験が無いゆえに、他人を助けるという行為で、その成功体験を求める心を埋めようとしているのだと思います。


仕事がダメダメでも、他人に奉仕する立派な人、と自分で思えれば、仕事がダメだとしても自分の価値を保っていられる。そう言う風に思っているのだと思います。

 

 

もう一つの理由として、生まれてこの方ずっと、「困っている人がいれば助けろ」と言われ続けてきたというのも大きいでしょう。 だからこそ、少しでも困っている人がいるならば、衝動的に助けようとしてしまう。

人助け自体は誰がどう考えても悪い事ではないはずです。(やり方にもよりますが

その考え自体が、ますます人を助けることを正当化し、衝動的に私を動かしてしまうのだろうと考えています。


人助けを「いつか」の夢にする


Giver:与える者、Taker:奪う者、Matcher:見返りを求める者という考え方があります。


私自身はGiverたるべし、と思っています。そこは、先ほども述べたような、自己肯定感の低さに起因し、Giverでなければ、人は自分の相手をしてくれないと思っているからです。率先しておもちゃや漫画を提供するいじめられっ子みたいな思考ですね。


一方で、見返りを求めている心があります。真のGiverならば、万人に奉仕し、無償の愛を捧げられます。どうやら、今の私はそうではない。


私はいかに虐げられようとも万人に奉仕し無償の愛を捧げられる存在を「聖人」と定義しております。そして、その聖人の精神は異常なレベルに到達しており、もはや人間には到達できないほど成熟していると勝手に定義しています。
いわば、究極のGiverが聖人です。


そういう意味で、私は私自身に(人間には到達できないと定義している)聖人であることを自分に求めているのかもしれません。
それを目指すと、自分の中で迷いなく決めているのであれば、それはそれで構いません。


ただ、今の私は若輩にして弱小です。人と人とのつながりに、わずかでも実利(お金や仕事だけではなく精神的な安心)を求めてしまう程度の人間です。それを求めずに済むだけの人間になるために、人と人との繋がり求め、人助けするという、手段と目的がループしている状態です。
なので、こんな葛藤をするくらいなら、人助けは「いつか」の夢にして、今は、もう少し自分のことに集中してみようと思います。


人助けという、私の中で明らかな善行、何よりも真っ先にすべきと言われ続けてきたことを手放すというのは、なかなか勇気のいることではあります。おそらく、助けたいという衝動に幾度となくかられるでしょう。


そこは、行動認知学の力を借りつつ、向き合って、人助けの衝動を少しだけ抑えてみようと思います。


それに、衝動的に行動しないだけで、助けた後の苦痛が和らぐようであれば、また人を助ければいいだけの話です。


そこは私自身が私自身の経過を見て、やっていけばいいだけの話です。ゆっくりとやっていこうと思います。

 

終わりに


誰がどう考えても善行である人助け。それによって苦しんでしまうのは自己肯定感の無さの裏返し。人助けによる自己肯定感という、他人任せの自己肯定感から、自分の中に自信をはぐくむため、人助けの前に、自分のことを優先してみる。

まずは衝動的に行動するのではなく、一旦落ち着いてからやってみる。


そんな感じでやっていこうと思います。


人助け自体は悪い事じゃないですし、もっと他の方法を考えるというのもあるのでしょうが、まずは、これが自分にとって最適かな、と思う物を選んでみました。


もし、それでもだめならその時また考え直します。


でも、1つ候補をあげるなら、地域のボランティア活動にでも参加しようかな、と思います。