ドムストの雑記帳

全然器用に生きられない私の真面目な事、勉強の事、お楽しみの事を書くために開設したブログです。

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考察についての私の見解

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これからいくつか、考察の記事を上げようと思っています。

その中には結構、とっぴなものも含まれています。書いた人間としては「面白い/つまらない」だけが重要であり、それ以外のことはどうでもいいと思っています。

 

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考察とは

 私にとっての考察とは「それらしい解釈の一つ」です。

 

私はこの世界に、正しい物なんてないと思っています。

科学の法則ですら、あくまで限られた範疇での正しいと思われている論理、に過ぎないと考えています。

 

と言うと、科学否定派みたいに感じられるかもしれませんが、そうではありません。

自らの使える範囲で仮説と検証を重ね、(限られた範囲の中であっても)正しい論理を導き出すことは、とてつもない価値のあることだと思っています。

そして、過去の論を丸ごと受け入れるのではなく、間違っている部分を修正し、更に「確からしい」論理に高めていく行為は、人類の行う崇高な行いであると考えています。

手持ちの道具では、まるで手が届かないダークマターの存在すら研究しようとする方々の熱意には頭が下がります。


話がそれました。

 

考察とは、科学と同じようなことを、作品などに対して行うという行為なのではないかと考えています。ただ、自分の考察を、科学と同列に、崇高と言うのはさすがにおこがましいと考えています。

 

与えられた文面やコンテキストから、関連性を見出し、その奥にある「何か」を引きずり出す。

それが考察だと考えております。


国語の試験をこじらせただけの話

 

国語の試験と言うものは、私にとって最も苦手な物でした。自分の世界に没頭するあまり、一般的な解釈という物を気にしない性格だったからです。(その性格は今でもあまり変わっていません

 

都市伝説であることは前置きしておきますが、野坂昭如が火垂るの墓を書いていた時の心境が「締め切りに追われていた」という有名な話があります。

それ以外にも、センター試験に使われた小説の作家が、センター試験の解答に対して、「解釈が間違っている」と指摘するという事件もあります。


「書き手」がいて、「読み手」がいる。どちらも、お互いの思い入れがあり、お互いに解釈をして読んでいます。

しかし、実際には、お互いほとんど違う解釈をしています。「書き手」の思いが100%伝わっていることなどあり得ません。
だからといって、「読み手」の解釈が間違っているわけでもなく、ただ、そこには異なる「解釈」があるだけです。


もっと簡単な話をすると、リンゴが木から落ちた時、ニュートンは万有引力の法則を発見し、私は「勿体ないなぁ。でも食べられるでしょ」と思います。
ニュートンの話もおそらく都市伝説でしょうけど


事実は「リンゴが落ちた」ただそれだけです。

ですが、私の感想もニュートンの発想も間違ってはいないはずです。ただ、私の感想は科学の発展に寄与しないので、ニュートンの発想より無価値なのは事実です。


見方が変われば、立場が変われば、物事は違って見える。ただそれだけです。


国語の試験は「一般的な論理に照らし合わせて一般的に最も確からしい解答を選ばせる試験だ」という解釈を、私は聞いたことがあります。

その「解釈」が普遍的に正しい必要はありません。小説のごく一部、切り出された箇所から鑑みて、何が一番正しそうなのか、それを選ぶ試験だということです。

私は生憎、「一般的な論理」にも「一般的に最も確からしい」にも感覚が鈍く、国語の試験は苦手でした。

ただ、この解釈に従えば、国語の試験はただのパズルだということです。


ただ、世界は試験ではないので「一般的」かどうかはあまり考慮する必要がありません。

なので、私は、その「自分の論理に照らし合わせて自分に最も確からしい話」を考察として提出するだけです。


その解釈が、作者の意図するところと違ったとしても、それはいいと思っています。

 

 「作者そこまで考えてないよ」という人もいます。それも正しい可能性が大です。ですが、緻密な描写にも意味があると考え、丹念に作品に目を通していくことは、ただ読み進めていくよりも、素晴らしい行為だと思っています。

 

それが仮に間違っていても、

 

 

そこにはただ「解釈」があるだけ


どんな論理も結局は「解釈」に過ぎないと思っています。(この意見も所詮、一つの解釈です


このことは、私が読んで特に面白いと感じたジョジョの考察の記事に書かれていました。

以下にその記事のリンクを張っておきます。

 


http://vdipb.hatenablog.com/entry/2015/12/12/194025

 

 

あまり更新されてもいないブログなのですが、非常に感銘を受けた記事です。

 

 

パクリとかそう言う指摘をしたいわけじゃない

 

ある物語と別の物語を比較すると、どっちがどっちをパクったか、のような話になってしまうことがあります。

 

オンラインの仮想世界の物語というと最近の日本では『ソードアート・オンライン』が特に人気が高いと言っていいでしょう。 

 ですが、「仮想世界での死=現実の死」という題材は『.hack』シリーズで採用されています。もっと前には、映画『マトリックス』も仮想現実を取り扱った作品です。

 

これらを並べると、『ソードアートオンライン』は『マトリックス』のパクリだ、という人もいるかもしれません。

 

『ソードアート・オンライン』も既出の何らかの作品に影響を受けた物とは思われますが、パクリだオリジナルだという論争は、ここではするつもりはありません。

 

別にそう言うことを指摘するために、考察記事を書きたいと思ったわけではありません。

 

ただ、散らばった断片を集め、それらしい形の「論理」をくみ上げたいだけです。それが面白ければそれでよく、今までの話の通り「絶対的に正しい」なんて言うつもりはありません。

 

ただ、解釈のうちの一つとして、そう当てはめると面白い、というだけの話です。

 

終わりに

 

これは、私がこのブログでアップロードする考察記事に対する「言い訳」のような記事です。

「言い訳」の為だけに1記事を書くなんて、バカバカしいとは理解しています。ですが、要らぬ対立を招かないためには、これくらいしておくことも大事かな、と思っています。

将来に不要な争いを産まぬための、世界に対する私なりの(くだらない)思いやりです。

 

なので、私の考察を読んで、不足を感じても「そんな考えもあるんだな」と思ってくだされば、おそらく、そんなに腹は立たないと思います。

否定も肯定もせず、ただ、そこにそういう物があると思ってくだされば、世の中大概のことは気楽に済みます。

まして、私がアニメや漫画に対してどんな考えを持っていようと、それであなたが不利益を被ることはおそらくないはずです。